このお話は、以前書いていた
「ナニしない男子(聖人編)」の後日談です。
よかったら合わせてお読みください。

「一曲何か弾いてよ…」
すると聖はおもむろにモーツァルトを弾き出す。

聖はレパートリーは完璧に暗譜しているし、
たとえ初見でもミスタッチなどない。
元野球少年というミスマッチはあるけどね。

そもそもピアノを弾きこなすって、スゴイ。
無数のオタマジャクシの群れの位置を
瞬時に見分け、それを自分の指先にまで
一瞬で信号を送るのだから
これはもう神業に違いないと思う。

その鍵盤を縦横無尽に舞い続ける聖の指先と
真剣な聖の横顔とを凝視するしかできない僕…
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「あん?…何見てるの?」
「いや、いつもながらスゴすぎると思って…」
「何か歌えば?」
「じゃ、例の曲♪で…」
「好きだよね~それ」

聖がリクエストに応える。
この曲の時だけは、さすがの聖も顔がこわばる。
しかし聖は、いつものごとく楽譜にあるものを
ただの音に変換するだけじゃなく、
そこに思いをこめてくる。
まるで聖の方が歌っているかのようなイントロに
僕は静かに深く息を吸い込む。
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聖の完璧な音に比べ
人の声とは、なんとあやふやなものだろう。
感情の乱れがそのまま声色になってしまう。
ロングトーンのコントロールができずに
案の定、息継ぎが滅茶苦茶になる。
聖、ごめん、僕、いっつも不器用で
聖に迷惑ばっかかけてて…

理は、ありのままでいいんだよ。
いつも想定外のことしてくれるけど、
その方がなんだか合わせやすいみたいだ。
鍵盤を越えて伝わってくる聖の囁き…

(聖、僕さ、あのね…)
(理、言わなくてもわかってる…)
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何かが二人の肉体を超えて、精神を貫き
今、聖のすべてが理の中に浸透していく…
聖のピアノタッチ、額に光る汗、髪の毛の匂い
一瞬の戸惑い、理性の仮面の下、そして
永遠にこうしていたいという思い。

と同時に、理のすべてが聖の深奥に向かう。
理のビブラート、頬を伝う一雫、吐息の微熱
刹那の情欲、内心の雄叫び、そして
永遠にこうしていたいという思い。
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もはやあらゆる障壁は取り払われ
生まれたままの姿の聖と理が、ここにいるだけだ。
果てしない宇宙の中で、絶え間ない歴史の中で
本当に必要なものはそれだけで十分だ。
ただ二人の音楽だけが、滔滔と流れていく…
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あれから何十年も時を経たが、
あの時の一体感を味わうことはもうできない。
せめてあの時の音楽を…と思ったけれど、
いくら検索しても、あの時の思いは出てこない。

それでいい…
音楽も人も一時だって留まっていないからこそ
美しい記憶となるのだから…

今日は、今日の音楽をお聞きください…
音は時代で遷り変わるものだけど
聖と僕との融合に限りなく近い、完璧な連弾で…


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