「いつもので…」「はい、いつもので…」
この二言以外お互いほとんどしゃべらない。
そして90分が過ぎた時
「いかがですか?」「これでイイです。」
終わりもその二言だけ。
そんな関係を僕たちは10年以上、
いやもうどれぐらい続けて来たか
覚えていない。
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最初にこの店には、よくしゃべるマダムと
無口な息子さんとがいた。
いつしか息子さんは、マダムの後継ぎとなり、
たまたま、マダムのお得意さんだった僕が、
息子さんの初の実験台となった。
彼はとにかく真面目で、最初のご挨拶以外は
自分から全く何もしゃべらなかった。
実は僕も美容室での世間話が苦手だったので
(僕は自分の仕事の話をされるのが嫌なので)
二人とも無言のうちに、髪を切る音だけが
いつもリズミカルに奏でられた。

彼の仕事ぶりは、職人のようだった。
慎重に、まるで髪の毛一本ずつの毛先を
そろえていくようなハサミさばきで、
カットだけでゆうに1時間を超え、
その先も永遠に静寂が続いていくようだった。
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そのうち僕は、彼のまどろっこしさに
じれったくなり、別の美容室に浮気した。

けれども、彼の施したカットだけは、
どんなに髪が伸びてきても、
全体のバランスを崩すことなく、
いつでも僕のお気に入りの髪型を保ち続けた。
彼は、僕といた時間のすべてにおいて
僕の髪の毛を、心底いとおしんでくれたのが、
今さらのように思い出された。

その時からもう、この先一生、
彼に切ってもらおうと覚悟を決めた。
再会した彼は、少しは美容師らしく
愛想よく出迎えてくれるまでに成長していた。
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いつしかお店には見習いの朗らかな娘さんが加わり
やがて二人は結婚した。
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部屋の向こう側から赤ちゃんの泣き声が聞こえると
二人は顔を見合わせ、「ちょっとすみません…」
とだけ言って手を離し、またすぐに戻って来ては、
黙々と髪を切るのだった。
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待合のソファーには絵本や玩具が置かれるようになり
それが投げ出されたランドセルに変わり、
ハサミの音に混じり九九を唱える声がしたかと思えば
もうそれは、なめらかな英語の発音に移り変わった。
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でもその十数年間、僕と彼との関係は変わらなかった
「いつもので…」「はい、いつもので…」
沈黙の中で、いつかはるか昔に、
ここで聞いた音楽が流れて来た…

やがてハサミの音が止まり、
僕はまどろみからうっすら目を開けた。
「いかがですか?」
鏡の中に映るすっかり大人になった二人に向かって
僕は答える、いつものように…
「これでイイです。」
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※画像は今から4年前に知り合い、
 ブログで紹介させてもらった、桑原淳さんの
 「旅人美容師の1000人ヘアカット世界一周の旅」
から数点お借りしました。ありがとうございます。
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