なかなか衝撃的なタイトルですが、
いつかこの記事は書きたいと思ってました。
現在、ウリセン関係の従事者だけでも、
全国に数百人は待機していると算定され、
さらにその利用者は、その数倍いますから、
うかつなことは書けないと自重しながら…。
最初に本記事の立場を明確にしておきます。
まず僕自身にとっても、
ウリセンはなくてはならないものであって、
ウリセンは必要という肯定的な見解をもっています。
しかし一方でまた、胸を張ってウリセンを
積極的にアピールできるかと言うと
どこか後ろめたさを感じてしまうのは何故か?
その相反する賛否両論をもつウリセンに対し
今その業界に関わっているすべての方と、
一緒に考えてみたいと思っています。
さてウリセンを売春の特殊例と見なすことで
その発祥は、古代ギリシャにまで遡るほど
人類の歴史の中で、最も古い職業の一つです。
人は人間である以上、
性欲から解き放たれることはない。
それを満たす手段として
様々な方法がとられるわけですが、
貨幣経済の誕生と同時に、
売春というサービスが興りました。
これまで国家がしばしば「公娼制」と言って
公的な立場で売春を認めたのは、
売春があることで、一定の性欲のはけ口を、
隔離された空間につくることができ、
全体としての社会の性秩序が維持され、
家族制度が守られることを目指したからです。
誰もがサバイバルに狩りをしなくても、
お金さえ払えばこのサービスを享受でき、
また売り手は、サービスに応じて
報酬を授かることで経済効果を上げる。
これはビジネスとしても正当に完結しますが
ここに一つの懐疑が生じてくるのです。
それは性が秘匿すべき本能に根ざすものだけに
それを商品化し、金銭を授受してよいものか?
あけすけな言い方をすれば
人の体を金で売り買いすることができるか?
という倫理的なためらいなのです。
かつては人身売買や、従軍慰安婦問題のような
非人道的な事例があったために、
人権救済の立場から売春防止法が制定されました。
しかし男性同士の売春関係が、
この法の想定外となるのは、
売春防止法で守られるべきは、
女性や子供のような弱者であり
男性はどんな非力であっても
「弱者」とは見なされないのです。
かくして法の外に置かれたウリセンは、
売春が人間社会にもたらす功罪というものを
そのまま受け継ぎ、生き残ったのですが、
果たしてウリセンは「社会的弱者」ではないのでしょうか?
確かに生活が困窮し、
食うためにやむを得ず働いてる方たちは
やはり「社会的弱者」には相違ないです。
また多くのセックスワーカーが職業差別に
苦しんでいる問題は残されており、
その意味では社会的弱者とも言えます。
しかし多くのウリセンは、僕たちと同じように
おいしい物を食べ、流行の服を着て、
時には映画や大学や海外旅行に出かける等
ごくごく普通の暮らしをしています。
また自らウリセンを志願し、自分を元手に、
いかに買ってもらえるか、しのぎを削り、
相手を選ばずに、より大勢の顧客を求め、
ひとときの悦楽と癒しを与えるサービスを
全身で提供しておられるのですから、
むしろプロフェッショナルな一労働者としての
尊厳を与えられるべきです。
どの職業も人が生きるためにはなくてはならないものであり、
仕事に差別や偏見をもつべきではありません。
しかしながらウリセンというお仕事に内在する
「性をお金で売り買いする、やましさ」はつきまとうわけで
そこに「ウリセンと関わるのはちょっと…」と
ためらってしまう、きわめてデリカシーな、
人としての問題が介在するのです。
あと「ウリセンは金銭による売買関係で、愛がない」と言う人もいます。
むろん一種のサービス提供にすぎないウリセンに、
愛を求めてもどうかとは思いますが、
それでも僕がこれまでおつきあいしたウリセンの大多数は、
心ある誠実な人たちでした。
買い手と売り手の間柄とは言え、
親密な交情はありますし、
相手をいとおしむ気持ちは、
少なからず持ち合わせています。
長くなりましたので、そろそろ締め括りますが
基本的には僕はウリセンを肯定しますし、
弱者ではないウリセンが自由に職業活動を行い
そのサービスや交情をやりとりすることは
お互いにとって有益であるとも思いますが、
何となく、やましさを感じてしまうところが
人間らしい率直な心の動きだと思います。
それを承知でウリセンを必要悪と知りつつ、
利用せねば自分を解き放てない、
そんな人生の裏面の駆け引きが、
今宵も無数に繰り広げられていることを、
どうかあなたにも知っておいてほしいのです…
かつての「成人(性人)の日」に
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